なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。
こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。
そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、 彼らに対して立てるわたしの契約である」。
ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、
この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。 燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
あなたはいけにえを好まれません。 たといわたしが燔祭をささげても あなたは喜ばれないでしょう。
あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、 「不義はことごとくゆるして、 よきものを受けいれてください。 わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。
シバから、わたしの所に乳香が来、 遠い国から、菖蒲が来るのはなんのためか。 あなたがたの燔祭はわたしには喜ばしくなく、 あなたがたの犠牲もうれしくはない。
牛をほふる者は、また人を殺す者、 小羊を犠牲とする者は、また犬をくびり殺す者、 供え物をささげる者は、また豚の血をささげる者、 乳香を記念としてささげる者は、 また偶像をほめる者である。 これはおのが道を選び、 その心は憎むべきものを楽しむ。
いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。